人様のコンテンツの話

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映画「すずめの戸締まり」を見た

見てから時間が経っているので、おぼろげなところはおぼろげ。
ネタバレ配慮しません。が、ストーリーを詳しく書くとかでもないです。

面白いとかつまらないとか、そういう感想でもなく。
だから、どうまとめていいかがわからない。しっちゃかめっちゃか。
https://pbs.twimg.com/media/Fir6KLBVsAEwf_T?format=jpg&name=4096x4096

感想

終盤、「ああ、この映画はすずめが自分と向き合う話だったんだ」と感じた。
ミミズがどうとか、草太を助けるんだとか色々あったけれどもそこはおまけでしかなく。
あくまで主題は自分探しの旅、という印象を持った。

それは朝ドラのような

ある種、一人旅。
旅先で出会った優しい人たちとの触れ合い。
然の家出による心配を膨らませた叔母さんと、初めて感情をむき出しにして言い合うこと。
看護師や教師という現実的な夢。
最終目的地である元実家にて、つらい過去と向き合うこと。

すごくシンプルで、そこにはアニメ的フィクションはほぼ無い。
移動の道中も含め映像で描かれるのは、リアルな世界。

懐メロでドライブというのもまた、現実感を煽る。

すずめはこの旅を通して叔母さんと、自分と、ようやく向き合うことが出来た。
新たな人間関係も築き、恋もした。

それはジブリのような

こちらは、フィクションの塊。

ミミズ、常世、閉じ師、ダイジン、何もかもがフィクション。
映像も禍々しさや、常世の美しさなど現実感を限りなく消している。

二つを混ぜる

現実のすずめと非現実の草太を繋ぎ合わせたのは運命であり、恋。
まず、イケメンと出会いすぐに両想いになること。
そのイケメンが特殊なチカラを持っていること。
そして自分も過去にその超常現象に巻き込まれており素質があったこと。
旅が無ければすずめは過去と向き合えなかったかもしれない。
旅に出るきっかけになったのは草太との出会いと、ダイジンやミミズの存在だった。
この作品における恋愛要素は、フィクションとしての比重が大きい。
しかしそもそも「恋愛」は多くの観客にとって現実なので、そこにフィクションさを感じにくい。

また、地震という、現実における恐怖の事象を「フィクションのせい」にしてしまっていることで、現実とフィクションをさらに融合させる。
より明確には、「扉」で世界を区切ること、その扉から未知のものが出てくることで二つの世界の境界と混ざり合いを明確に認識出来る。
アニメーションならではの表現のように思う。

プラマイゼロ

振り返って考えた。
すずめの心境に変化があった現実パートと比較し、フィクションパートは「最終的には何も起きていない」。

・楔が抜けた、ダイジンがいなくなった、草太が椅子になった、東京で大震災が起きそうになった、仙台で後戸からミミズが出ていきそうになった。
・ダイジンサダイジンは楔に戻った。草太は人間に戻った。日本のどこでも震災は起きなかった。
すずめが行動したことによってマイナスに傾いたかのように見え続けていたが、すずめの行動ですべてを未然に防いでいった。
それはすずめが特殊な人間の立場ではなく、「一人の普通の女の子」だからなのだろう。
彼女は世界に対して特別なことは何もしなくてよく、してはならない。

すずめの戸締まり

常世の設定も、閉じ師の設定も、おそらくそこを掘り下げればいくらでも掘り下げられるし、それだけでシリーズものの作品が生まれるだろう。
しかしそこは一切掘り下げられなかった。
何故か。
そこが重要な物語ではないからだ。
そこを描きたいのなら、草太が主役で旅をする話を作ればいい。

しかしこの映画は「すずめの戸締まり」なのだ。
すずめが誰と出会い、何を感じ、どう行動するか。
主眼はとにかくそこで、アニメ的フィクションはおまけ。

だから、多くの人にとってとっつきやすいのかもしれないと感じた。
設定に凝り固まられても、ついて行きづらい。
しかし、女の子が恋愛ベースで動きつつも、自分と向き合うというその単純な構造と、そこに散りばめられたフィクションがアニメとして飲み込みやすいのかもしれないと。
きっとすごくカジュアルなのだ。

だからこそ

私には、物足りなかった。
まずそもそも美男美女の恋愛に全く興味がない。
「イケメンの人ー」というセリフが私にとっては余計だった。
運命で出会ってすぐ惚れて、というのに感情移入する術がわからない。
だからだろうか、いつも以上に冷静な感想だと自分自身思う。

「ただ助けたい」ならまだ入っていけるのだが、「好きだから助けたい」だと途端に乖離してしまう。
それはすずめにとっては必要な自覚であったことは間違いない。

2度目

新海誠監督作品を見るのは「君の名は。」に続き2作目。
続きというか、続いてはいないが。とにかくこの2作しか見ていない。
その中で、私は君の名はも特に好みではなかったのだけれど、すずめを見ることである程度納得がいった。

何年も前に1度見ただけの記憶を呼び起こすのも大変だが、
「君」を見終えたとき、隕石をどう止めるかのパートだけは面白く感じたことを覚えており、何故そこをもっと掘り下げないのかと思ったはず。
しかし「すずめ」を見て、そういう設定はこの監督にとってはフレーバー、香り付けに過ぎないものなのだろうという答えが見つかった。

彼が描いているのはどうやら「恋愛」である。
しかもその「運命」のような恋愛が好みではないこと。
さらにその恋愛が、登場人物の行動動機であること。
そこがどうしたって個人的な好みと合致しない。だから面白かったともつまらなかったとも思わない。思えないのだ。

行ってきます

行ってきますという言葉も、すずめの戸締まりというタイトルも。
日常でありながらも、どこか新たな旅立ちを示唆する。
過去に蹴りをつけ、ようやく人生が始められるかのような。

その他

ダイジン

どうやら神様のようなので。神の心人知らず、人の心神知らず。なのだろう。
お互いの行動の理由は、相手に理解出来るものではない。
「ダイジンから役割を草太に移したから戻すのは無理」(要約)と言っていたが、最終的には戻ったのでそこはよくわからん。

音楽

合わなかった。劇中BGM、劇伴?
「この映像でその曲調?」と思うことが何度かあった。
ルージュの伝言が流れたときはかなり冷めた。

松村北斗さん

最近SixTONESのチャンネルとかを見るので、少し気にして見ていた。
叫ぶシーンは上手い。普通に話すシーンは固さがある。
でもそれより何より、普段の彼が話しているようなトーンで話すシーンが何度も見られ、すごく印象的だった。
彼が自然に、彼の言葉として出しているような音が出ていることにどこか安心感を持った。それはそのキャラクターの本心にも聞こえるから。

ネタバレを避ける生き方

私はこの映画で地震が起こることも、震災の話が出ることも一切知らなかった。
けど、世の中にはそれを知ってから見た人たちもいるのだろう。
知らないで見たほうがきっと感動はより大きいと思うよ。

私は上映スケジュール調べようとしたら北斗が声優やってるって知ってしまったのも後悔してたくらい。
でも他の情報は予告編も何もかも知らずに見た。
見ながら、真っ直ぐ自分の中から生まれてくる感想とだけ向き合えた。
展開の予想も、そこまでの情報以上のことから推測は出来なかった。
それが私は楽しい。
映画を見てるときに頭の中に「あの人はこう言っていたなあ」という考えが浮かんでしまったら、もうそれは自分の純粋な感想ではなくなっているのだ。
suzume-tojimari-movie.jp














余談

「震災を描いたから名作、意欲作」と言われるとそうではないでしょうと否定したくなる。
誰しも大なり小なりつらい経験はある。
震災じゃなくても親を亡くす子はいる。
だから私はこの作品における震災の描写を、「特別なもの」としては捉えなかった。
あくまでもそれによって何が起きたのか、すずめの心はどう動いたかの方を見た。

蛇足

映像が綺麗とかは当たり前の話で特筆することもなく。
鍵の開け締めのシーンを印象的に何度もクローズアップしていたけど、その効果があまり感じられなかったな。

最後に一言

私が端的にあの映画を表すなら。
新海誠の美術で描く日本縦断ロードムービー、懐メロとともに。
朝ドラのような人間関係。時々ジブリのような超常現象。
そんな感じ。