人様のコンテンツの話

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キャラソンのあり方

1-1 以前からの違和感

この感覚は昔から持っていた。
そしてそれはそもそもとして「この子が歌を歌うんだろうか……」というところから始まる。

そちらは高津カリノ先生も近頃ネタにしていた。読んで見て欲しい。


「歌うこと自体がキャラブレ」
今更これに触れる人はほぼいない。何故なら「二次元のキャラクターは歌って当然」だから。
暗黙の了解というか。冷静にツッコむほうがバカを見るというか。
理解は出来るがあまり飲み込みたくない。今回は歌う壁は乗り越えたとして話を進める。

1-2「内向的」なキャラクターが歌うということ

アニメのいわゆるキャラソンを聞くときにたびたび持つこの違和感。
「このキャラクターは歌うのか?」という壁を乗り越えた先には、現実と繋がってしまう扉がある。

私達にとってキャラクターがいる世界はフィクションで、こちらは現実。
キャラソンはその中間の曖昧なラインに位置する。

その世界でも主人公やその周りのキャラクターしか知らないようなことを、リズムに乗って赤裸々に歌い出すキャラソンがある。
「この歌詞、本人の性格からして本人は書かないよね。じゃあ誰が書いたんだ?」と、疑問に思った瞬間この扉は開く。
そして「現実世界」の作詞家がどちらの世界にも現れ、フィクションは崩壊する。

本人が書いて無い以上、別の誰かが書いた歌なのだろう。それはその世界の登場人物であろうか。いいや、違う。
その世界を外側から見た人間がはっきりと、シナリオ、設定、口癖から歌詞を書いていったことが見えてくる。私が見ていたのと同じ側から。
フィクションだったはずの歌はあっという間に現実になり、私は何を楽しめばいいのかわからなくなる。
あまりにも大胆に現実が殴ってくるので、私はいつもここに強烈な違和感を覚えている。

逆に、「元気のあるキャラクターが元気な感じで歌う」のは、「誰が見ても周知の事実」なので違和感はほぼない。

1-3 キャラクターによる作詞

作詞家を現れさせない単純な方法もある。
例えが古くなって申し訳ないのだが、
マクロスFシェリル、けいおん!放課後ティータイム、AngelBeats!のガルデモと、2010年頃に曲をたくさん出していた彼女たちは「彼女たち自身が歌詞を書いている」という設定があった。
だから、赤裸々な内容を歌っていても違和感がないにもかかわらず、そこまで赤裸々な内容はむしろ見られない。
本人が書いてるという側面があるからこそ、詞もどこか現実のようなフィクションのような塩梅で、等身大の言葉が生まれやすい。

これは違和感を消すための一つの解決策と言えるだろう。

もう少し遡ると涼宮ハルヒの「God knows...」も、「軽音部の先輩が作った曲」という設定がある。
本当に何気ないがこの「キャラクター自身が書いた」設定を付けるだけで違和感は一気に減る。
一方で、そのハルヒのキャラソン、特に長門有希の「雪、無音、窓辺にて。」は、今回書いている違和感の塊のような存在だ。
無口で自身のことを話すことも無いキャラが、まくしたてるように歌う。好きな歌だが、考え始めるとわけがわからなくなってしまう。

そもそも、普段耳にするようなキャラソン以外の歌で「自分の内面を赤裸々に歌った歌」を聞くことはなかなかない。
キャラソンだけで何故か大量に成立してるこのテンプレートが成立してることがそもそもおかしい気がしてきた。

1-4 それでもこの形は続く

では何故この方法が主流なのか。

おそらく「普通に普通の歌詞の普通の歌」を歌ってもきっと「キャラクター感」が出ない。
だから、「私はキャラクターです!!!!!!」という過度な主張をするこの手法が使われているのだと想像する。
一定の需要もあるのだろう。

私にとって音楽は、毎日そこにあるもの。
だから、好きなものは何度でも何年でも聴き続けたい。
こういう作り方で作られた曲は、どうしたってたまにしか聞かれず「懐かしいね」とすぐ言われてしまうものになってしまう気がしてならない。

まとめ
この作り方のキャラソンは「私」の心には響かず。それどころか違和感の塊で、1度聞いたらもう聞かないってことになりかねないから、もうこういう作り方は止めて欲しいなあという願い。
せめて、作詞家が見えないようにしてほしい。口癖並べりゃいいってもんじゃない。
ただまあ「気にしない」と思えば「気にしないままでいる」ことも出来る。

ここまでが、世間一般で言うキャラソンへの違和感。

2-0 具体的な不満

ここからの内容を一言で表すと、
「小糸のキャラソンが私の地雷だった話」という愚痴である。
少し前の流行で言う「おきもち」

2-1 シャイニーカラーズのソロ曲、言わばキャラソンが1曲ずつ作られた

アイドルマスター」のキャラクターであり、歌を歌うことは必然である。
「こんなゆっくり喋ってる子が、歌だと早口になるんだなあ……」という違和感はたまに頭をよぎっては消している。

何度かこの内容で記事を書こうとして、思いとどまってきた。それは自分でも「あまりにも神経質過ぎる」と思ったからだ。

2-2 「わたしの主人公はわたしだから!」の曲調

誰が聞いてもわかるように、小糸のソロ曲/キャラソンは1の章で私が書いてきた「私の好みではない作られ方で作られたキャラソン」だ。
その時点で不満はあった。
youtu.be
先程は詞の話しかしてこなかったが、ここでは音楽の方向性としての不満だ。
このタイプの「二次元です!!!!!」という主張が強い曲はアイマスや声優で溢れてる自分のプレイリストの中でも浮きやすい。
つまり他の曲の間に入ったときに浮くので、かなりスキップしやすい曲調と言える。

Lunaはアルバム全体として落ち着いていたことがさらに拍車をかけ試聴動画の中でも浮いている様から、「他の人に嫌われないといいなあ」と不安にさせた。
小糸と透の収録盤を逆にしてもいい気がしてくるが、それはそれでアルバムとして締まらなくなる予感がする。

断っておくと、曲そのものとしては好きな部類に入る。これがソロではなく、そういうコンセプトのユニットの曲なら違和感は殆どなかったと想像する。

2-3「わたしの主人公はわたしだから!」の歌詞

次に歌詞、1章にて記した「内向的なキャラが歌う」ということに関しての違和感。
「待ってー」と歌わせることが何より、「プロデューサー」の視点からするとありえなかった。
確かに本人はそういうことを思っているかもしれないが、決してそういうことを口にするタイプではないと思っていたからだ。
一時の状況として遅れを取ったら「ま、待ってよ」とは言うかもしれないが、努力に関してはきっと言わない。

あまりにも赤裸々に劣等感を歌い上げるこの曲。
プロデューサーにしか話していないような、ともすれば話してすらいない心の内、それを歌うことを小糸自身が果たして良しとするのだろうか……。
歌詞を意識しながら聞いていた当初の違和感はこんな感じだった。

ここまで書いたがしかし、小糸というキャラクターを抜きにして歌詞を見る。
劣等感があっても、それでもひたむきに頑張るその姿勢を描く素敵なものだ。

メロディも歌詞も客観的に見れば悪くない。
私はそう思っていた。そして「気にしない」ことにした。こういう曲が出来上がったのだから、それを歌っているのだから、それはもうこういうものなんだ。
なんだかんだ聞いてれば馴染むし、いい曲なのだ。
そう思っていたから、不満を表に出すことも止めていた。

しかし数カ月後、それすらも壊されてしまった。

2-4 GRADとプロデューサーとして

先日、ノクチルGRAD編が実装になった。
小糸のGRADをやったときは何も思っていなかった。
それはシナリオと曲を結びつけていなかったから。

ある日急に、シナリオを思い出した。曲と照らし合わせてみた。
蓋をしようとしていた違和感が、止めどなく溢れ始めた。

この曲を本人はいつか納得して歌ってくれることがあるかもしれない。

しかし、小糸とああいった話をした「プロデューサー」が、この曲を発注するのはありえない。

これは「アイドル」についての解釈ではなく、自身の分身であるはずの「プロデューサー」が、自身の意図と合わないプロデュースをした結果の曲が生まれていることへの違和感。

小糸の曲は、「本人が書いた」設定もなく、「本人は乗り気にはならない」内容で、「本人の内面」を正確に捉えている。
これでは[1-2]で書いたようにフィクションの世界から「作詞家」が完全に顔を出してしまっている。
つまりそれは「プロデューサー」が「作詞家」に対して、
「この子はこんな性格で。こんな口癖だから。それ使って」と依頼したことを想像させる。
それはあまりにも不誠実な、これまで私が読んできた「プロデューサー」像との乖離。

そもそもは小さな不満だった。
「私の好きな子は、こんなことを歌うのだろうか」
この疑問は普通なら答えは出ないはずだった。
しかしその熱が冷めないうちに「本人はこの内容では歌いたがらない」と解釈出来る話を目にしてしまった。
それが掛け合わさってしまい、ただのキャラソンなら無視できる程度だった違和感を、私の中で我慢ならないものになるまで膨らませてしまったのだった。

「小糸の気持ちを優先したプロデュースが出来ていない産物であること」
それが最大の不満となり、「避けられたはずだろう!」という憤りがここまでの熱量になった。

これがGRAD前の曲なら、プロデューサー単独の暴走で本人の納得は無いまま無理やり歌わせていて。
私がプロデューサーならGRAD後に、この方向に舵は切れない。
私の中ではどうしたって成立しない歌になってしまった。

「キャラソン=キャラの内面を歌うもの」

ある種お決まりの方程式のようなもの。それは作り手側だけでもなく、受け取る側の思考にも大いに入り込んでいる。
キャラソンがリリースされると、それがたとえどんな歌詞であっても「こんな風に思っていたのか!!!!(衝撃)(謎の納得)」と素直に受け取る感想もたくさん目にした。
今までのテキストからそう読み解けなかったのならきっと、「そんな風に思ってることを歌ってる歌ではないよ」と私は思う。

彼らの中では「キャラソンに求めるもの」が「キャラクターの内面」なのだろう。
それ自体は求めるものの方向性が違うだけで、求めている行為は同じだと思っているから否定する気は全くない。

ただ、聴くときは一度フラットな目線になってくれたらと願う。
本人のことかもしれないし、一般論かもしれない。一つの可能性に絞ってしまうのはあまりにももったいない。

そもそも今回書いてきたような「赤裸々な本人の内面の部分」のことを知っているのはプロデューサーや主人公目線で作品を見てきたからであって、歌として「本人の内面である」とは誰も一言も言っていないわけだ。いくらでも自由に解釈していい部分なんだ。

だからといって「世界にいる他の誰かのことを歌った歌」となる曲とならない曲がどうしたってあると私は思っているが。

3-0 他のソロ曲はどうだったの

小糸以外のキャラソンは私の目にはどう映ったのか。
簡単に言うと、「わからない」「判断出来ない」曲の方が多い。
そして、「わからないけど好き」な曲もある。
小糸の曲も、好きな部類であってほしかった。の章。

3-1 好きなキャラクターだからこそ起きていた違和感。三峰の曲は曲調がすごく好きだが

わからない筆頭は三峰の「プラスチック・アンブレラ」である。

プラスチック・アンブレラ

プラスチック・アンブレラ

  • 三峰結華 (CV.成海瑠奈)
  • アニメ
  • ¥255
正直私は三峰についてあまり良く知らない。コミュは読んでるし、いくつかTrueも達成し多少の人となりは知ってるつもりでも、把握してないことのほうが多いだろうと思っている。
だから逆にほとんど考えずに曲を聴くことが出来る。
Twitterでは「三峰に歌わせてほしくなかった」なんて意見も見た。
私はこの曲が大好きだ。アレンジ、メロディ、言葉の響き。
ただこの曲が「三峰の内面を歌った歌なのかどうか」ということは判断が付けられない。
そうなのかもしれないな、とも思うし、違うかもしれないとも思う。
だから、この曲に関してはあまり考えずに音の響きを楽しんでいる。
実際、「捉え方」一つでどうにでも解釈できる余地があるように思う。
きっとだからこの曲を好きな部分もあるのだろう。
言えるのは、三峰がこの曲を歌っているのはとても「似合う」ということ。

逆に小糸のことはよく見てきて、多少なりとも思い入れがある。
だからこそ、自分が思っているものと違う方向にプロデュースが進んでしまったが故の違和感が起きた。
先の「三峰に歌わせてほしくなかった」も同様の事象で、簡単に言えばユーザーと開発者で「解釈違い」が発生しているに過ぎない。
しかし「アイドル」についての解釈違いとはちょっと違う。
「私が思うプロデューサーはこんなプロデュースしない」という、「プロデューサー」への解釈違いである。

3-2 冬優子の曲から見るアプローチ

アプローチ。作り方。どういう方向から作っていくのか。
例として誰にとってもわかりやすいので、言いたいことはだいたいここに詰まっている。

SOS

SOS

  • 黛 冬優子 (CV.幸村恵理)
  • アニメ
  • ¥255
冬優子のことを知っている人なら分かる通り、この曲は完全に「ふゆ」の曲だ。
「冬優子」の部分など欠片もない。
それは「本人が」望まないからに他ならない。
「プロデューサー」が彼女に歌わせるべき歌はこういう歌で、彼女自身が歌いたいのもこういう歌だ。
この曲作りのアプローチ、発想を、私は全てのキャラでやってほしいし、やってほしかった。

今回言いたかったのはこれがすべて。

他作品であれば、作品作りの過程など知ることもない。しかしアイドルマスターは、アイドルの裏側を見て成長を感じていくものだ。
どういう意思で彼女たちがアイドル活動をやっているのか、それは核となる部分。

[1-2]にて「キャラソンはその(フィクションと現実の)曖昧なラインに位置する」と書いた。
アイマスにおける「歌」は現実にあるように思えるが、その実100%フィクションだ。
何故なら「あちらの世界でのアイドル活動の一貫として作成されたもの」だからである。
それを体現しているのがまさにこの冬優子の曲だと言えるだろう。

だから現実に発売されながらも、決して現実の側面は見えてはいけない。見えた瞬間にアイドルもプロデューサーもいなくなり、アイドルが歌うナニカになってしまう。
だがむしろ、アイマスの曲はそこを気にせず作られてきた。冬優子の曲の方が特例と言えるだろう。
だから、私は違和感を無視してこれまで過ごしてきた。扉を開けてきた作詞家を透明人間にして。

この曲に出会ってしまったおかげで、「他の曲もこうであったらいいのに」という思いが膨らんだ。

3-3 甜花の「また明日」は内面の歌ではない

と、私は思っている。

また明日

また明日

誤解を恐れずに言えばこの歌は「誰が歌っても成立する歌」である。
だがしかし、この歌を甜花が歌っていることに私は強く意義を感じている。
甜花の声だから、甜花の性格だから、甜花の言葉として引き立つ。
今回のキャラソンの中で、私にとってのベストソングであると言ってもいいだろう。
曲がキャラを引き立て、またキャラも曲を引き立てる。
私が本当に「プロデューサー」ならば、こういった曲だけを作って行きたくなってしまうような。

3-4 偶然の産物

私の思考通りに冬優子の曲はこうなったのではないと思う。
「冬優子の曲なら、こういう感じだよね」という発想が必ずあったはず。
そして「冬優子の内面を出す曲にしよう」なんて発想はありえなかったはず。
ただその過程は本来全てのキャラで行われている必要があるんじゃないのか、というのが私のおきもちだ。

4-1 最終的に

「この曲好きだな」「この曲嫌いだな」だけなら「合う合わない」の問題で片付ける。
でも自分の好きな子の曲の「作り方」が嫌いだった場合は、ただただ悔しい。
過程を変えれば違うものが出来たかもしれないのに。違う過程で出来ている曲が現に同じシリーズ/同じCD内にあるのに、何故出来なかったのか。
それをだらだらだらだら書いた。
所詮私は「プロデューサー」ではなく「プロデューサー面のファン」なので、出来上がったものを受け取るしかない。
だからやりきれない気持ちぐらいは書かせてください。

結局これは「私の好み」の問題。
まとめ
1.甜花の曲が完成品としての理想
2.冬優子の曲は作られ方が理想
だから、みんなの曲も冬優子の曲のように作って欲しい、が、それが必ずしも正解にたどり着くわけではない。
結局その方向性からしか作られなくなったら、なんかつまらなくなりそうでもある。
3.アイマスは特殊であり「この曲を作らせたのはプロデューサー」という図式が成立するため、「プロデューサー」がキャラクターとしてどう見られているかの視点を忘れずに
4.何をどう作ったところで、それを好きな人も嫌いな人も必ず出るから考えるだけ無駄なこともある

「気にするな」のマインドが一番大事。

余談
次の育成シナリオは「単独ライブ」のようですが、そのためには特に初期以外のユニットの曲が少ないと思います。
1年に2曲しかユニットの曲が増えないって、ユニットのファンとしてはすごく寂しいです。商売としても「ユニット」という軸がしっかりあり、そのコンセプトが好きである人に刺さるものを作っていくことを続けられないのはもったいない。
特にアニソン業界は「声優だからいろんな色を出す」のが流行りで、楽曲提供を色々受けた結果ブレまくってどこのファンを大事にしたいのかわからない迷走状態に陥りやすいので。
1ユニットにつき1年にせめて新曲6曲ほど欲しい。欲を言えばフルアルバム、新曲10曲。

余談の余談

ハナマルバッジ

ハナマルバッジ

ハナマルバッジは完璧に近いと思っている。
ミリオンライブのジュリアの曲は、本人作詞と名言はされていないものの(定かではない)
ジュリア自身が書いていたとしても違和感が無いようになっている。理想。
雛菜の曲が口癖とセリフ並べただけみたいになってるから実は一番やばいかもしれない……。